▶おすすめYouTube勉強動画チャンネル【トイトク】

中学歴史「南北朝時代の要点まとめ」

中学歴史「南北朝時代の要点まとめ」です。南北朝の動乱についてまとめています。鎌倉幕府滅亡から室町幕府成立までの流れです。それでは、南北朝の動乱をみていきましょう。

スポンサーリンク

鎌倉幕府滅亡

御嵯峨天皇の死後、天皇家は持明院統大覚寺統に分かれ、皇位や天皇家領荘園の相続をめぐる争いが続きます。14世紀初め、両統は交代で皇位につく両統送立の方式を定めた。大覚寺統から出た後醍醐天皇は天皇親政を進め、意欲的な政治を行いました。

後醍醐天皇は倒幕計画進めたが1324年に幕府側に漏れて失敗した。これを正中の変といいます。1331年に挙兵しましたが失敗。これを元弘の変といいます。天皇は翌年、隠岐に流され、持明院統の光厳天皇が即位した。

後醍醐天皇の息子である護良親王や河内の楠木正成が畿内の新興武士などの反幕勢力を結集して蜂起し、幕府軍と戦った。これを制圧するために幕府軍の大将として派遣されていた足利尊氏は幕府に背いて京都の六波羅探題を攻略した。

関東では新田義貞が幕府の本拠地鎌倉を攻め、得宗北条高時以下の北条氏一族を滅ぼした。こうして、1333年鎌倉幕府は滅亡した。

スポンサーリンク

南北朝の動乱

後醍醐天皇は幕府滅びると京都に戻り、院政も摂政・関白を否定し、公武を統一した天皇親政の理想を実現することを目指した。これを建武の新政という。

新政府の機構は中央に最高機関として記録所や幕府の引付を受け継いた所領関係の裁判を担当する雑訴決断所などが設置された。1336年、足利尊氏は持明院統と光明天皇を擁立し、幕府を開く目的のもと建武式目を制定した。

後醍醐天皇は吉野に逃れ、足利尊氏に擁立された持明院統に対し、正統の天皇であることを主張した。こうして、吉野の南朝、京都の北朝が対立した。

足利義満は、京都室町に豪華な花の御所を造営しここで政治なったので、この幕府を室町幕府と呼ぶようになった。幕府の機構も、この時代に整いました。南北朝の動乱は、1392年南朝の後亀山天皇が、北朝の後小松天皇に譲位する形で終結して南北朝の合体が実現した。

YouTubeでも学べるように、問題に対しての解説動画をアップしています。高校入試対策や定期テスト対策にご利用ください。特に数学などは動画の方が分かりやすい場合もありますよね。
社会
スポンサーリンク
トクココ

コメント

テキストのコピーはできません。
タイトルとURLをコピーしました