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中学社会歴史「江戸時代のテストに出るポイントをざっくり」

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中学社会歴史「江戸時代で覚えておくべきこと一覧」です。

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江戸時代で覚えておくべきこと一覧(中学歴史)

幕藩体制

豊臣秀吉の死後、五大老筆頭の徳川家康と五奉行の石田光成の対立が表面化。1600年、両者は関ヶ原の戦いで激突し、勝利して徳川家康は3年後に征夷大将軍に就任、江戸に幕府開いた。

徳川家康は将軍職を息子の秀忠に譲る一方で、自らは大御所として実権を握り続け、方広寺鐘銘問題をきっかけに服従の姿勢を見せない秀吉の子豊臣秀頼を1615年の大坂夏の陣で攻め滅ぼした。

3代将軍徳川家光の頃までに、強力な領主権を持つ将軍(幕府)と大名(藩)が土地と人民を統治する支配体制が確立した。これを幕藩体制という。

幕府の軍事力

将軍直属の家臣団でお目見え以上の旗本とお目見え以下の御家人及び諸大名の軍役で構成されており、圧倒的な力を保持していた。

幕府の財政

直轄領(幕領)からの400万石にも呼ぶ年貢のほか、佐渡・伊豆・但馬生野・石見大森などの主要鉱山からの収入によって支えられていた。

江戸幕府のしくみ

幕府の職制は、3代将軍徳川家光の頃までに整備された。最高職の大老は常置ではなく、普段は老中が幕政を統括するようになっていた。これに、老中を補佐する若年寄を加えて、幕府の中枢が構成されていた。

老中配下には、大名を監察する大目付、江戸の行政・司法にあたる町奉行、財政をあずかる勘定奉行などがおり。若年寄以下に旗本を観察する目付がいた。

寺社の観察にあたる寺社奉行と町奉行、勘定奉行をまとめて三奉行といい、老中とともに重要事項を評定所やで合議して採決した。

京都には朝廷の統制や西国大名の監視を行う京都所司代が、重要都市には城代や町奉行、遠国奉行がおかれ、幕領の百姓統制には郡代・代官が直接あたった。

江戸時代初期の外交

1600年オランダ船リーフデ号が豊後に漂着した。徳川家康は、この船航の海士ヤン=ヨーステンと水先案内人のウィリアム=アダムズも外交顧問として登用した。その後、オランダは1609年に、イギリスは1613年に来日し、幕府の許可を得て肥前平戸に商館を開いた。

糸割符制度

幕府は輸入生糸の売買におけるポルトガル商人の利益独占を排除するため、京都・堺・長崎の商人らに糸割符仲間を作らせ、輸入生糸を一括購入させた。この制度を糸割符制度という。のちに、京都・堺・長崎に、江戸・大阪の商人を加えて五ヶ所商人と呼ばれます。

慶長遣欧使節

スペインとの通交を考えて徳川家康は、京都の商人田中勝介をメキシコに派遣した。仙台藩主伊達政宗の家臣支倉常長をスペインに派遣した。これを慶長遣欧使節という。

朱印船貿易

幕府から渡航許可を与えられた船を朱印船といい、東南アジア各地に形成された日本人居住地を日本町という。渡航した日本人の中にはアユタヤ朝に仕えた山田長政もいた。

対馬藩主は1609年に朝鮮と己酉約条を結んで、国交を回復し、釜山に倭館をおいて交易を行った。また朝鮮から新将軍の就任を慶賀して通信使が来日した。

キリスト教の禁教

1612年に禁教令を出してキリスト教を禁止した。1614年、高山右近らをマニラ・マカオに追放し、1622年には長崎で多数の信者を処刑する元和の大殉教を起こした。

1637年領主の過酷の年貢取り立てに、抵抗して、天草四郎を首領とするキリシタン百姓ら3万余が原城跡に立てこもる一揆をおこした。これを島原の乱という。

幕府はキリスト像やマリア像を踏ませて、キリストを摘発する踏絵を行ったり、宗門改めと呼ばれる信教調査を実施した。また、民衆を強制的に寺院に所属させてキリストでないことを証明させる寺請制度を定めた。

鎖国

貿易統制の上から、1616年ヨーロッパ船の寄港地として平戸と長崎に制限し、1624年にはスペイン船を来航禁止した。1633年には奉書船以外の日本船の渡航を禁止して、1635年には、海外渡航と在外日本人の帰国を全面禁止した。

1639年ポルトガル船の来航が禁止され、1642年にはオランダ商館が長崎の出島に移された。中国人は1689年には長崎の唐人屋敷に居住地を限定された。

ペリーの来航

ペリーは1853年4月に琉球国(現在の沖縄)に黒船でやってきました。当時、日本は鎖国していましたので琉球⇒長崎⇒江戸と対応をたらいまわしにされた言う説があります。そして、同年6月に黒船4隻で相模国(現在の神奈川県)の浦賀沖に現れました。ペリーは当時のアメリカ大統領フィルモアの国書を幕府に手渡し強い態度で開国するよう求めました。そして幕府は、1年の猶予期間をもらい開国するか否かの判断を行いました。

江戸幕府の検討

老中(国政を統括する役職名)阿部正弘は、今までは朝廷へ報告を行っていなかったのだが、今回の件はかなり重要だと見て朝廷へ報告を行いました。その結果、朝廷の権限力を高め諸大名の発言力を上げるという逆効果になってしまいなにも対策が立ちませんでした。

日米和親条約

1854年1月にペリーは再来日しました。目的は、もちろん開国と日米和親条約の締結です。その時は黒船を7隻ひきつれてやってきたとのことです。そして幕府は威力に負け3月に日米和親条約を締結しました。下記の3つです。

<日米和親条約の内容>
・下田・函館の開港を要求
・薪水・食料の供給
・領事の下田駐在を要求

一方的な要求ですが当時の幕府は鎖国していたために、情報を知らず、戦争で勝てるわけがなかったので諦めて調印しました。

大政奉還

徳川幕府15代将軍である徳川慶喜はフランスから援助してもらい幕府を立て直そうと頑張ったが、薩長両藩が同盟により倒幕へ動き始めました。しかし、土佐藩はあくまでも中立を保ち藩士である後藤象二郎と坂本竜馬が山内容動を介し大政奉還を進めました。そして、慶喜はそれを受け入れ10月14日朝廷へ政権を返しました。そして12月19日に王政復古の大号令を発し、260年以上続いた徳川幕府は幕を閉じました。

大政奉還とは政治の権限を幕府から朝廷に返すことです。現代では絶対あり得ませんが、政府が天皇に政権を渡すということです。(なぜあり得ないのかというと主権は国民であり天皇ではないからです)

  • 1858年 日米修好通商条約締結
  • 1860年 桜田門外の変⇒井伊直弼暗殺
  • 1862年 坂下門外の変⇒安藤信生負傷
  • 1863年 薩英戦争(鹿児島vsイギリス)
  • 1866年 薩長同盟成立⇒坂本竜馬が仲介を行う
  • 1867年 江戸幕府(徳川幕府)、大政奉還へ

江戸時代の農業

箱根用水や見沼代用水の整備、新田開発によって、耕地面積が2倍近くに拡大してます。農具の改良が進み、深耕用の備中ぐわ、脱穀用の千歯ごき、選別用の千石どおし、灌漑の踏車などが考案されました。

また、肥料も、商品作物栽培において、干鰯、油粕などの金肥が使用されました。

新しい栽培技術や農業知識を説いた農書も著され、宮崎安貞の「農業全書」や大蔵永常の「農具便利論」「広益国産考」を世に出されました。

江戸時代の漁業

鰯・鰊は、干鰯や〆粕などに加工され、商品作物栽培の金肥として流通。いりこ、ふかひれなどを詰めた俵物は、銅に代わって、長崎貿易における中国(清)への主要輸出品となりました。

また、瀬戸内海沿岸の入浜塩田による製塩業も発達しました。

江戸時代の交通

江戸日本橋を起点とする幕府直轄の主要幹線道路を総称して五街道といい、宿駅がおこあれ、一里塚という路程評、「入鉄砲に出女」を取り締まる関所が設けられました。

海上運輸では、南海路に菱垣廻船、樽廻船が運航し、17世紀後半には、川村瑞賢によって、東廻り・西廻り海運が整備されました。

江戸時代の金融

江戸・大坂・京都を三都と呼び、「将軍のお膝元」である江戸は政治都市として発達し、18世紀前半には、人口100万人を超えました。商業都市である大坂は、諸藩の年貢米や特産物を保管する蔵屋敷が軒を並べ、京都は、文化・宗教都市としての特色がありました。

  • 本両替…貨幣の両替、幕府などの公金出納、為替を営む商人。
  • 札差…旗本・御家人にかわって禄米を受領し、売却を請け負った商人。
  • 蔵元…蔵屋敷へ運ばれた年貢米や特産物の取引にたずさわる商人。
  • 掛屋…代金などの出納にあたった商人。

元禄文化

元禄文化は、江戸前期、京都や大阪など上方を中心に、町人の間で栄えた文化です。

<文学>

  • 井原西鶴…浮世草子などの小説で、町人の生活や考えを生き生きと描いた。
  • 近松門左衛門…「曽根崎心中」など、義理と人情に生きる町人の悲劇を人形浄瑠璃や歌舞伎に描いた。
  • 松尾芭蕉…紀行文「奥の細道」など俳諧(俳句)を芸術として大成した。

などが有名。

  • 浮世草子…仮名草子と一線を画した写実的な描写が特色で、現世的・享楽的な内容。
  • 人形浄瑠璃…三味線と語りに合わせて演じられる人形劇。「文楽」ともいわれる。

<芸能・絵画>

  • 芸能…歌舞伎が演劇として発達。
  • 絵画…俵屋宗達の影響を受けた尾形光琳のはなやかな装飾画。菱川師宣の浮世絵が有名。

<儒学>
・山崎闇斎…神道を儒教的に解釈した垂加神道を説く。
・中江藤樹…知行合一を解く陽明学を広めた。
・熊沢蕃山…「大学或問」を著したが、幕政批判を含むことから処罰された。

<古学>
・荻生徂徠…古学派を継承し「政談」を著し、経世論に道を開いた。
・太宰春台…武士による商業や専売制度の採用を説く「経済録」を著した。

<朱子学>
新井白石…「読史余論」を著し、独自の時代区分論を展開した。

自然科学では、本草学が発達し、貝原益軒が「大和本草」を著した。

関孝和は、筆算代数式や円周率の計算などのすぐれた研究で和算を大成した。渋川春海は、中国の暦をもとに「貞享暦」を作成し、幕府の天文方に任じられた。

元禄文化の文学

古典研究の分野では、契沖が「万葉代匠記」を著し、北村季吟が「源氏物語」や「枕草子」を研究した。これらの成果はのちの国学の基礎となった。

大坂の井原西鶴は、談林俳諧で注目を集め、その後浮世草子と呼ばれる小説に転じて、「好色一代男」「日本永大蔵」などの作品を残した。

奇抜な表現を好む談林俳諧に対して、松尾芭蕉は幽玄閑寂の蕉風俳諧を確立し、「奥の細道」などを著した。

人形浄瑠璃の「曾根崎心中」は近松門左衛門の脚本と、竹本義太夫の語りで観衆の共感をよんだ。

民衆の演劇として発達した歌舞伎は、勇壮な荒事を演じた江戸の初代市川団十郎や恋愛劇である和事を得意とした上方の坂田藤十郎らの名優を輩出した。

化政文化

化政文化は、江戸後期の文化・文政年間を中心に、江戸で栄えた町人文化です。

<文学>

  • 小林一茶…農民の素朴な気持ちを俳諧によんだ俳人。与謝蕪村もおさえておきましょう。
  • 十返舎一九…こっけい本の「東海道中膝栗毛」を著した
  • 滝沢馬琴…「南総里見八犬伝」などの長編小説を著した

<芸術>

  • 葛飾北斎…風景画「富嶽三十六景」
  • 歌川広重…「東海道五十三次」などの浮世絵。
  • 喜多川歌麿…美人画

などが有名です。

<新しい学問>

  • 蘭学…オランダ語を通して西洋の学問や技術、文化を研究する学問
  • 儒学…孔子の教えをもとに忠義や孝行を大切にする学問。江戸幕府が奨励した。
  • 寺子屋…江戸後期、町人や農民の子どもにも教育が広まり、読み・書き・そろばんなどを教えた庶民の教育機関

本居宣長…「古事記」を研究し、のちの尊王論や幕府批判思想の元となった国学を大成した。
解体新書…前野良沢や杉田玄白らが、オランダ語の人体解剖書を翻訳して出版した。

私塾や藩校なども次々つくられ、教育は広がっていきました。(例)緒方洪庵の適塾

文治政治

徳川家綱が4代将軍を継いだ頃には幕藩体制は安定期を迎えていました。しかし、一方で太平の世に飽きたらず秩序におさまらない「かぶき者」の横行や大名の改易などによる牢人の増加が社会問題になりました。

幕府の支配方針が武断政治から、儒教理念にもとづく教化と儀礼・法律の整備により、幕府権威と社会秩序を維持しようとする文治政治へと転換。きっかけは、1651年、家光の死の直後に油井正雪ら不満をもつ牢人がおこした慶安の変。

徳川家綱は、牢人発生の原因となる大名改易を減らすために末期養子の禁止を緩和し、さらに殉死を禁止して戦国時代の遺風の除去につとめた。また、すべての大名に対して、改めて領地を与える領知宛行状を発給して、将軍の権威を確認した。

叔父として幼少の4代将軍徳川家綱を補佐した会津藩主保科正之は、朱子学者の山崎闇斉を招聘し、文治政治による幕政の刷新をはかった。

諸藩の文教政策

  • 岡山藩主池田光政は、陽明学者の熊沢蕃山を登用して、郷校閑谷学校を設立し、蕃山は花畠教場を設けた。
  • 水戸藩主徳川光圀は、江戸藩邸に彰考館を建て、「大日本史」の編纂を開始。
  • 加賀藩主前田綱紀は朱子学者木下順庵らを招いて文教政策を進めた。

享保の改革

享保の改革は、紀州藩出身の8代将軍徳川吉宗が30年にわたって取り組んだ改革です。

足高の制

人材の登用と支出の抑制のために、徳川吉宗は足高の制を定めて、旗本のつく役職の標準石高を設け、それ以下のものが就任する場合は、在職中のみ不足分を補うことにした。

上米制

倹約令を発して支出を抑え、増収策として諸大名から石高1万石につき米100石を上納させる上米制を実施し、その代わりに参勤交代の負担ゆるめた。また新田開発を奨励し、米価上昇策として、堂島米市場を公認しました。

目安箱

江戸の民政は、吉宗が登用した町奉行大倉忠相を中心に進められた。その他、有力人事として、田中丘隅、室鳩巣、荻生徂徠が挙げられます。町方独自の消防組織として町火消が編成されたほか、評定所門前に置かれた目安箱への庶民の投書を採用して、貧民の医療費救済施設である小石川養生所が設けられた。

公事方御定書

吉宗は判例に基づく合理的な司法判断を進めるため公事方御定書を制定した。また、増加する金銀貸借についての紛争には、当事者間で解決を図る相対済し令を制定した。

寛政の改革

白河藩主の松平定信が老中となり11代将軍を補佐として江戸の治安問題や外国勢力に対応するためのの改革を寛政の改革という。

旧里帰農令

飢餓などで荒廃した農村の復興を目指し、生業を持たない者に資金を与えて、農村に帰らせる旧里帰農令を出した。また、社倉・義倉を作らせて貯穀する囲米を農村に命じて、飢饉や災害に備えさせた。

人足寄場

江戸の石川島に人足寄場を設けて無宿人を収容し治安対策を図るとともに就業指導を行った。また。江戸の町々には町人用の節約額の7割をを積み立てさせる七分積金を命じて、飢饉や災害に備えさせた。

棄損令

改革政治を担う旗本・御家人の生活安定を図る目的から、棄損令を発して、礼差らに6年以前の債務を破棄するように命じた。

寛政異学の禁

1790年、聖堂学問所で朱子学以外の講義を禁止させる。また、7年後には聖堂学問所を官立の昌平坂学問所に改め、学科試験による人材登用を目指した。

また、風俗矯正や出版統制を断行し、「三国通覧図説」、「海国兵談」の著者、林子平や洒落本作家の山東京伝、黄色表紙作家の恋川春町、出版元の蔦屋重三郎らを処罰した。

1789年、光格天皇の実父への尊号宣下に反対し、関係する公家を処分した。この事件は尊号一件と呼ばれ、これまでの朝幕協調関係が崩れるきっかけとなった。

田沼意次の政治改革

殖産興業を中心とする重商主義的政策を積極的に展開した。

株仲間の公認

商人や手工業者の仲間である株仲間を公認し、運上・冥加などの営業税の増収につとめた。

印旛沼・手賀沼の干拓

印旛沼・手賀沼の干拓による新田開発を試みを試みたり、仙台藩医工藤平助の意見を入れて、蝦夷地開発やロシア人の交易を計画した。

定量の計数銀貨を発行

定量の計数銀貨を発行し、金を中心とする貨幣制度への一本化をはかった。1772年から鋳造された南鐐二朱銀は、そのような銀貨の代表例である。

天明の飢饉

東北地方の冷害や浅間山の大噴火がもとで、多数の犠牲者が発生した。

このころ、賄賂や縁故人事で、田沼意知は刺殺され、10代将軍徳川家治の死後、田沼意次は、老中を罷免されます。

社会
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